「ふたりを外に連れ出して『先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか』と言った」使徒16:30

私たちが、深い苦しみや悲しみの中においても、主に拠りすがり、信仰をもって、平安と感謝をもって生活する時に、周囲の人々は、なぜそうできるのかと不思議に思い、インパクトを受ける。パウロとシラスが、迫害により酷く鞭打たれた後、投獄された。足かせと激痛の中で、賛美と感謝をしていた時に、囚人たちが聞き入っていた。

 

この世では、そういう状況では、愚痴、不満、失望、落胆が普通だ。人々は、彼らをただ者ではないと思ったろう。又、1マイル行く者と共に、2マイル行ったらどうだろう。1マイル行くのも苦痛なのに、2マイル行くなど有り得ない。どうして? そんな事ができるのか?と自分には出来ないので、やはり何かを感じる。その時に証しができる。

 

希望について説明を求める人に、弁明出来る用意は大切だ。そのチャンスはいつ来るかわからない。ある人が、離婚という非常につらく苦しい試練を通った。尽きない涙の谷を通り、張り裂けそうな苦しみの中で、主だけが望みで、頼りで、何もかも委ねて、主に拠りすがった。その時、不思議を経験した。世のものでは無い主の平安を与えられ、主にかくまわれているようだった。

 

状況は悲惨なのに、主の平安に包まれた。この世のものでない御霊の喜びと感謝が湧いた。誰よりも心を痛め、じっと見守っていた未信者の父親が「お前が、安らかでいる事が嬉しい」と「自分も、お前の神を信じる」と、主を信じ救われた。

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喜びにつけ悲しみにつけ、自分に向けられる主のご愛をその度に知らされ深く感謝するばかりだ。死を超えた希望も持っている。いつも主が共にいてくださる感謝を証しして生きよう。

 

 発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係