「みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます」ヤコブ1:23

御言葉を聞いて、行わないとは、朝に自分の顔を鏡で見て、汚れていても、そのままにして立ち去る人のようだ。朝、汚れを見たのだが、一日が始まると忙しく、全く忘れてしまう。生まれつきの顔は、自分が持っているそのままの顔だ。鏡とは御言葉だ。御言葉は、私たちの心をありのままに映し出す鏡だ。

 

鏡が無ければ、顔は見ることが出来ないように、御言葉が無ければ、自分の心の姿はわからない。だが、御言葉の鏡を見て、自分の汚れや、罪がわかったとしても、対処せずそのままならどうだろう。何も起こらないし、何も変わらない。ずっと汚れたままだ。その時に御言葉を実行するなら、初めて自分は変えられて行く。

 

悔い改めるなら罪はきれいに赦され、又、対人関係で和解が必要なら、従うと、主の栄光が現れ、自分自身も平安にされ、変えられて行く。ある人が、忙しい毎日に、デボーションから全く遠ざかっていた事を、礼拝の中で気づかされた。日々の忙しさに流されてしまっていた。示された事を即、実行した。

 

祈りの中で、溢れる様々な思いを、明け渡して行った。主との交わりに、久し振りに心満たされ平安にされた。「私のたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ」「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます」。御言葉に示された、目の前のその事を、実行できるよう祈ろう。実行する時に、生まれつきのままの姿でなく、御言葉の人格へと変えられて行く。

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せっかく御言葉で示されても、立ち上がると日々の生活に関心が移ってしまう。鏡を見るように、内なる人にも最大の関心をはらっていたい。素直に御言葉を実行しよう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係