「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから・・しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい」ガラテヤ5:1

ある人が不眠に悩まされ、幾ら努力しても、どうしてもだめだった。眠ろうとすればするほど、更に不眠に陥った。余りにつらくて医師のもとに行くと、「そうですか。では不眠の新記録を打ち立てましょうよ。眠らないよう頑張って」と言われた。何とその人は、その晩眠れたのだ。「眠らねば」の呪縛から解放され「眠らなくてもよいのだ」と安心しきってしまい、重荷と悩みから解き放たれた。

 

私たちも律法の「ねばならない」に陥って行く時、どうやっても律法を行えない自分に、がんじがらめに縛られる。まるでアリ地獄のようだ。もがけばもがくほど、ますます泥沼にはまって行く。出来ない自分を責め、とがめにさいなまれ、苦しくてたまらない。しかし「律法は私たちをキリストへ導くための養育係となりました」とあり、キリストのもとに私たちを連れて行くために、律法が存在する。

 

つまり律法は私たちが、何一つ守れない事を、私たちに教えるためにあると。聖書の御言葉はすべて、私たちの内におられる御霊行い、成し遂げて下さる。自分の力でするのではない。自分の力でしようとした途端、自分の肩にすべての荷がかかり、つらくなる。心は、重苦しく、信仰がつらい重い修業になる。

 

「人のすべての考えにまさる神の平安」「喜びに満ちあふれ」など、どこの世界の話かになってしまう。もし今、つらい状態なら、主にありのままを告げて祈ろう。御霊による歩みへと導いて下さる。

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我慢も努力も今日はできても明日はできない。失敗すれば落ち込み、成功すればどこかで自分を誇ってしまう。いつも自分の奴隷だ。主の最善を信じて主に託すときに、本当に自由にされる。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係