「・・ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった」使徒 16:7

私たちも進路の事で経験する。自分の進みたい方向があるのだが、閉ざされてしまう。強い願いがあるにかかわらず、目の前で戸が閉じられる。入学や入社試験、事業や様々なプランにおいても経験する。 又、大事な仕事を前に病に倒れたりする。「なぜ?どうして?」悲しくつらい経験だ。

 

パウロもアジアでの宣教活動を御霊に止められた。では、ビテニヤへ行こうとしたが、それも阻止された。宣教のためなのに、なぜ? 時に御霊の導きは、私たちに理解ができない。だが理解できなくても、そこに主を認め、主のご計画を信じて行くこと、それが信仰によって生きるということだ。あちこち閉じられたパウロは結果的にマケドニヤに渡るよう導かれた。

 

そこには、思いを遙かに超えたヨーロッパ宣教という大きな御心があった。進路を止められた事は、導きを失った事ではない。迷子になったように不安を感じてしまうが、御心が別にあるという事だ。ある人は医師として働こうとした時に、病が発覚。数年の入院生活にひどく落胆した。

 

が、完治して実践の場に出た時、患者の気持ちがわかるという、幸いな益を受けて、病を感謝した。自分が思う最善の進路が閉ざされたなら、主が思われる最善の道に導かれる。道が閉ざされたなら、導きを失ったのではなく。御心が別にある。別の道を備えられている。祈って、主を待とう。

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主は門を閉ざして、別の道へと進ませてくださる。とても明快な導きだ。願いが叶わない悲しみはあっても、揺るぎない主への信頼をもって次の導きを待ち望もう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係