「こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった」ヨハネ6:66

私たちは、どんな動機で主を信じ、従っているだろう。主はご自身を求め、従って来る者を決して拒まれない。しかし助けて欲しい、祈りを聞いて欲しいとの強い思いがあり、それがどんなに熱心であったとしても、自分の欲求を満たすためだけならどうだろう。主を知りたいというのでなく、ただただ自分の願望を叶えて欲しいだけだろうか。

 

それなら遅かれ早かれ、思い通りにならない時に、失望して主を離れる。実は従っているのではなく、自分のために、主を利用していただけだ。利用価値が無いなら離れ去ってしまう。しかし真に主を知りたい、従いたいと願う人は、そこで、離れるのではなく、自らの欲求を満たしたいがために、従っていた事に気づかされた事に感謝する。

 

悔い改めて、信仰のあり方を軌道修正される、大きな恵みの機会だ。間違った方向に進む者を、御霊は示し、気づきを与え、方向転換させて下さる。彼らは、主の「肉を食べ、血を飲む・・」との言葉を、「ひどい言葉」だと言った。絶対に受け入れられない拒否反応だ。不信となる。自分が、主より上で、自分の知識を超えると、捨ててしまう。

 

理解できないのなら、へりくだって、主に教えてもらおうとは決してしない。そんな時、ペテロは「私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます」との信仰告白をした。信じ、従って行く時に初めて、「この教えが神から出たものかどうか」がわかる。

------------

個人的に示してくださる御霊の導きを通して、経験を通して初めて、主こそ自分のいのちのパンだと告白する事ができる。自分の知恵や経験を洗い流し、素直に主ご自信を信じられるよう祈っていこう。