信仰生活を送る中で、教会に行っては、御言葉を学んでいる。しかしその聞いた御言葉が、それはそれ、これはこれと、実生活とは別物になってしまっていないだろうか。聖書の言葉と、実際の生活がリンクしないで、切り分けられてしまっている。御言葉通りにするなら、この世の中ではやって行けないと思っている。
教会は教会、この世はこの世の事と、それぞれに合わせてやって行く。嘘も方便、グレイにしておいた方がうまく行く。摩擦さえなければ良い。しかしそうするなら、どんどん神の聖さや真実から離れて行ってしまう。何が聖くて真実なのかが、わからなくなってしまう。
自分がなかなか変わらないのは、御言葉と実生活が、別々になっているだろうか。御言葉を頭では、はい、はいと聞いているのだが、実際は、現実生活はこの世の価値観で生きている。しかし御言葉を拒むのではなく、聞いてはいるので気づかない。
主が必要を与える、主に頼れと言われるが、現実にはお金が生活や老後を保障してくれると、思っている。神と言っても、本音はお金が大事。弱さの中に神の力が現れる、弱さが恵み、と言われて、本音は能力があり、強い事、力のある事が善と思っている。実は御言葉とかけ離れた世の価値観で生きている。もしそうなら、そこに気づく事から祝福が始まる。
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主の価値観と、肉とこの世の価値観を使い分けてしまっているだろうか。そうしていると、信じてはいるのだが、主のことがよくわからない。自分が変わらない。御霊の喜びがわからない。自分を明け渡して、目の前の一つ一つに従う時、自分が変えられて行く。主がわかる。
発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係