「立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます」マルコ11:25

誰かに対する恨み事があるだろうか。それは誰かを、決して赦していない事になる。もし自分自身に対して、主からのあわれみ深い赦しを受け取っているなら、それは必ず他者への赦しとなって現れると。つまり、他者を赦せないという事は、自分自身も主からの赦しを受け取っていない事になってしまう。

 

それは主との交わりの妨げになる。ある働き人が、特別な集会での説教を依頼された。求道者には救いを、信仰者は新たにされるように、力強い主の働きをと、皆が祈りに祈り、祈りが積まれて行った。その説教者自身も準備のために主と交わり、祈りに祈っていた。

 

段々と具体的に説教の内容に入ろうとするが、どうしても語る言葉が与えられない。期日も迫る中、なおも祈るが示されない。どうすればよいかわからず、心が探られるよう、何か妨げあれば教えられるようにと切に求めた。すると心の底に、赦せない頑なな思いがある事が示された。

 

心の奥にしまい込みふたをし、普段は気づかずにいたが、紛れもなくある人々に根深い恨みを抱いていた。批判され、誹謗中傷された事への怒り、恨み、赦せない思いだった。主の御前に涙ながらに悔い改め、赦しを祈った。心がすっきりし、晴れやかになった。喜びが来て平安が満ちた。語る言葉が授けられた。主は取り扱って下さる。取り扱いにあずかろう。

 

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恨み事がある時、赦す事は難しい。赦したくない頑なな自我がある。自分には出来ない事を認め、祈って行く時に、不思議が起きる事を験する。祈りは力だ。主が働かれて、みわざをして下さる。自分では無い。祈りによって、主に拠りすがろう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係