「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたはそれをさげすまれません」詩篇51:17

生まれつきの性質が、一番言いたくない言葉が「ごめんなさい」だ。プライドに触れて来る。ごめんなさいを回避して、代わりの善行で穴埋めしてしまいたい。そして肉の性質は、どこまでも自分を正当化しようとする。自らの非を認め、謝罪するなど、とんでもない。言い訳、弁解など、幾らでも出て来る。

 

エデンの園で罪を犯したアダムに、主は心配し、「あなたはどこにいるのか」と語りかけ、悔い改めのチャンスを与えるため、「あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか」と問われた。だがアダムは、「この女がくれたので、私は食べたのです」と答えた。くれたエバが悪いのだと。エバがくれなかったら、自分は食べなかったのだから。自分は悪くない。

 

エバも、主から「何ということをしたのか」と言われて、「ごめんなさい。食べました」と言えた。ところが、「蛇が私を惑わしたから、食べました」と答えた。惑わした蛇が悪い。蛇が惑わさなければ、私は食べなかったと。誰しもにある罪の性質だ。罪が入った結果、それまでは神中心だったのが、自分中心の生き方になってしまった。そのため責任転嫁するようになった。

 

日常生活の随所に現れる自分自身の姿だろうか。肉は、心のとがめを、良い行いで帳消しにしてしまいたいが、自らの罪を認めて、ごめんなさいと悔い改める事を主は喜ばれる。主の血潮で赦して下さり、「彼らの罪を思い出さない」と。何という恵みだろう。

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罪を認めることは一番痛い。言い訳は次々に出てくるが、罪を認めなければ、主の赦しも受け取れない。悔いた心を主に献げよう。主への感謝と喜びが湧いてくる。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係