ここは、自分が傷つけられて、相手を恨み、憎んでいるのではない。よく相手を赦せなくて、悶々とする。恨みと憎しみは募り、自分が苦しくどうにもならない。赦すべきだとわかるのだが、赦せない。しかしやはり和解しようとする、そういう事を言っているのではない。「自分」がでなく、「相手」が自分の言葉や態度につまずいたり、反感を抱いている事を言っている。
もし誰かに、自分が恨まれているなら、礼拝途上でも、まずその人の所に行き、謝罪し、和解し、その上で礼拝を献げるようにと言っている。でなければ、礼拝が意味をなさないと。自分が恨んでいるのでなく、自分が恨まれている場合の事を言っている。主は悔い改めること、和解することを喜ばれる。
しかし生まれつきの性質には、大変難しい。善行はまだしも、謝罪だけはしたくない。プライドがある。謝罪以外なら何でもする。また、エデンの園のアダムとエバの通り、罪は認めたくなく、自分を正当化する。そうなったのは、相手が悪い、相手のせいだと。
又、謝罪は敗北のように感じてしまう。しかし主は「「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである」と。へりくだった謝罪を喜ばれている。
-----------
謝罪し自分を改める事は痛みを伴うが、礼拝よりもまず和解をと主は望んでおられる。解決にむけて祈り努力しよう。主との関係がなにより正しくされる。
発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係