「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての惡から私たちをきよめてくださいます」Ⅰヨハネ1:9

罪を言い表すとは、自分の犯した罪を「その通りです」と認める事だ。その時、主は真実で正しい方だから、その罪を赦して下さる。しかし罪の性質は、プライドゆえ、その通りですと認めたくない。プライドが許さないのだ。あれこれ言い訳で自分を正当化する。これは状況が悪かった、相手が悪い、相手のせいと思いたい。罪を認める事は非常に痛い。

 

自我はどうあっても「ごめんなさい」だけは言いたくない。回避したい。そうなら赦しを受ける事ができない。赦される喜びを知る事もない。平安もないままだ。そんな時は、あるがままで主の御前に行けばよい。「認めたくない」「自分が悪いと思わない」「でも、助けて導いて下さい」その祈りに主は答えられる。

 

悔い改める時、罪が赦される。苦しい心に平安が戻り、喜びが戻る。バテシバとの姦淫とウリヤ殺害の罪を重ねたダビデは「黙っていた時には、1日中うめいて、骨々は疲れ果て」「御手が昼も夜も重くのしかかり、骨髄は夏のひでりのように乾ききった」苦しみもだえた。だが罪を告白した途端、ダビデは赦された。

 

主との関係が回復されたダビデは「主にあって、喜び、楽しめ。喜びの声をあげよ」と。もし、言い訳と弁解に終始し、自分を正当化しているなら、自らの罪を認めよう。そう出来るよう祈ろう。全き赦しが与えられ、喜びと安堵、大きな祝福の中に入れられる。弱さのゆえに罪を犯してしまうが、赦されて、赦されて、歩める。

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罪の中にいるとわからないが、主の赦しを受け取った時、どれほど罪が醜いかわかる。言い訳もごまかしも主には不要だ。真実な主は赦そうと待っていてくださる。赦されてまた主を愛していこう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係