「すると、イエスは彼らに答えて言われた『人の子が栄光を受けるその時が来ました』」ヨハネ12:23

主は、十字架の前に「父よ、時が来ました。子の栄光を現して下さい」と祈られた。この上ない残酷で凄惨な十字架での死に、栄光が現れるようにと。十字架刑など、一見最悪で、敗北、悲惨、無力の極みにしか見えない。しかし栄光だと言われている。「栄光」の言葉から連想するのは大成功、大勝利、大いなる喜び事・・等、思い浮かべるのは、失敗の逆ではないだろうか。

 

受験は合格、畑は豊作、子供は良い子、立身出世、商売繁盛、家内安全、夫婦円満が栄光だと思っていないか。しかし、取りも直さず十字架刑こそが「わたしの栄光を彼らが見る」「わたしを栄光で輝かせて下さい」と言われた「栄光」であった。見えるところの大成功だけが栄光なのではない。

 

もしそれが悲惨なものであっても、又、失敗であっても、そこで、あなたが主に従って行くなら、主はあなたを通して「栄光」を現されるという事だ。姦淫と殺人罪はどうだろう。栄光のまさに正反対だ。しかし真摯に悔い改めたダビデは、素晴らしく栄光のために用いられた。

 

ヘブル11章の信仰の聖徒たちに名を連ね、ダビデの詩編に、私たちはどんなに慰められ、励まされ、癒やされ、引き上げられるだろう。どんな悲惨な状況であっても、そこで自分自身を明け渡して、御霊の導きに従おう。主は、ご自身の栄光のために用いて下さる。主のあわれみは尽きない。

 

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栄光というと華々しい大成功を、輝かしいヒーローを、連想するが、一見、悲惨、残酷で惨めな十字架が栄光だと言っている。どんな場合も、自分を捨てて、自我に死んで、主に従う時に現されるものだ。自分を捨てて行く時に、主の栄光が現れて行く。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係