「ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである」マタイ19:22

金持ちの青年が、永遠のいのちを得たいと「どんな良いことをしたらよいか」と主のもとに来た。主は、彼に「良い方は、ひとりだけ」と答えた。主が、人が何かを行う問題でなく、良い方である神の問題だと言われたが、行おうとの思いに満ちていた。主は、この間違いを導こうと律法を持ち出された。

 

律法は、自分の力で守れない事、良い事ができない事を教えるためにある。律法がいのちを与える事ができるなら、義は良い行いによる。だが、すべての人が罪の下に閉じ込められ、義が、善行でなく、キリストに対する信仰によるとされた。青年に、良い事は自分ではできない事を教えようとされた。

 

「殺してはならない・・あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」しかし彼は「守っている」と答えた。しかし守れるはずはない。彼は「何が欠けているのか」と。主は、財産を貧しい人に施すようにと。もし隣人を愛しているなら、すでに施していたはずだ。自力では、律法は守れない事を、主は認識させたかった。

 

だからこそ「良い方」がおられる事を。しかし彼はどこまでも自力に固執し、主のもとを去った。私たちも、財産=自力、自分の行い、自分を捨てられないだろうか。自分では不可能だ。しかし主にはできる。主のもとを去らずに頼り、取り扱っていただこう。

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自分の行いを頼っていると主の一方的な恵みの喜びを味わうチャンスがなく、まだ何かが足りないとつぶやく。自分にはできないけど主にはできる。子供のように主の元にいこう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係