「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してください ました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷の くびきを負わせられないようにしなさい」ガラテヤ5:1

主は、十字架で罪の問題を解決し、すでに私たちを自由にして下さった。しかしその自由とは、自分のしたい事を思うようにする事ではない。それは肉のわがままであって、放縦だ。自由にはルールが伴い、秩序がある。そして責任が伴う。その上に立って初めて自由だ。ルールを無視する事が、自由だと勘違いしてはいけない。

 

魚は水中で自由であり、陸では不自由だ。魚は、水という拘束の中でこそ自由だ。例えば楽器を演奏する時、楽譜に縛られないだろうか。しかし譜面通りに演奏すると素晴らしい楽曲を演奏できる。スポーツもルールに従って初めて、持てる力を発揮し、大いに競技を楽しめる。しばしば生まれつきの価値観は勘違いする。

 

すべての縛りから解放される事が自由だと。そうではなく、拘束を受け入れて従う事、つまり戒めに従い、御霊の導きに従うところに、真の自由がある。例えば、嫌な人がいると、肉は嫌っていたい。愛したいのでなく、嫌いたいので、嫌う事が、好きなように生きる自由だと思ってしまう。

 

しかし人を憎むと平安を失い、苦しくつらく、非常に不自由だ。では、どうする事が自由なのだろう。愛が無い事を認めて、主に愛を求める時に、主は取り扱って下さる。その示しに従う中で、主からの愛が与えられる。憎むのではなく、愛して行く時に解き放たれ、平安と御霊の喜びを経験する。自分を明け渡して、御霊に従って行く時に、自由に、自由にされて行く。

-------------

憎みたいままに憎んでいるなら、わがままな自我に振り回される奴隷だ。主が与えてくださった御霊に導かれて生きよう。主が自由を与えてくださる。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係