「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではな く、パンを食べて満腹したからです」ヨハネ6:26

主が、五つのパンと二匹の魚で奇跡をされ、大勢の人々を満腹させられた。その奇跡を見るや、群衆は大歓声で主をかつぎ上げ、王とするために連れて行こうとした。その時、主は、ひとり、山に退かれた。人々は奇跡を見、満腹した時に「まことに、この方こそ世に来られるはずの預言者」と言ったが、主はその心の内をご存じであった。

 

群衆は主を信じ、従って生きて行きたいと願ったのではなかった。主について行けばパンがもらえる。生活の心配がなく、ずっと良い暮らしができる、そのための主であった。私たちも自己充足、自己実現のために、主について行っているだろうか。何のために主に従っているのだろう。

 

何かの利得のためだろうか。主は満腹を下さる。自分の願いが叶えられ、自分の欲望が満たされる。しかしそれだけなら、自分の願望が叶えられている間はついて行くが、願望が叶えられず、思い通りにならなくなると、主を離れる事になる。ついて行く意味が無いからだ。主は必ず必要を与えて下さる。必要を与えて下さるのであって、私たちの肉の思い通りに動かれるのではない。

 

人々が主を「むりやりに連れて行こう」とした時に、主は退かれた。私たちはどうだろう。今、どこまでも自分の願いを通そうと、むりやりに主を連れて行こうとの態度だろうか。そうでなく、自分の思いの方を捨てて、明け渡して、主のみ思いを聞き、主に従おう。それこそが大きな祝福で、消えない満足と喜びの道だ。

 

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主に願いが叶えられるのは心地良い。しかしそれのみなら、かしわ手を打って拝み、ご利益をもらうのと変わらない。自分が変えられる事は無い。自我が砕かれ、主に従い、主とひとつに歩み、主のかたちに変えられ行く恵み、その喜びに目を向けて行きたい。、

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係