「イエスは・・その両眼につばきをつけ、両手を彼に当ててやって、 『何か見えるか』と聞かれた」マルコ8:23

人々が盲人を主のもとに連れて来た。主は盲人の両眼につばをつけ、両手を当てられ「何が見えるか」と問われた。彼は見えるようになり「人が見える、木のようだが、歩いているのが見える」と答えた。見えるのだが、はっきりとではなく、人が木のようにぼんやり見えた。だが、まだ鮮明ではなかった。そこで主が再度、彼の両眼に両手を当てられた。

 

そして彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになった。つまりまず目が開かれ、ぼんやり見えるようにされた後、彼が続けてじっと「見つめて」いた時に、全快し「はっきり」見えるようになった。私たちはどうだろう。主がぼんやりしているだろうか。見えてはいるのだが、人が木のように、ぼやっ~としているだろうか。

 

それならまず、はっきり見えない事を認めよう。そこから祝福は始まる。見えているのか、見えていないのか、あいまいにしていれば、ずっとあいまいなままだ。次に、はっきりと見えるよう、主に祈り求めよう。彼は、じっと見つめた。主がはっきりと見えるために、主との親しい交わりが必要だ。

 

この世の事に忙殺され、主との交わりがないがしろになっているだろうか。主を知るためには時間が必要だ。そして信仰は聞くことから始まり、聞くことは、みことばによる。御言葉を聞き、学ぶことは非常に大切だ。そのための時間を献げよう。時間があれば、御言葉に向かおうと思っていると、時間は全く無い。

 

少しの時間でも聖別しよう。主は必ず豊かに祝福して下さる。特に示された御言葉には従おう。そうして行く時に、主が、目を開いて下さって、はっきりと見えるようにして下さる。

-------------

主を個人的に知るには時間が必要だ。主に語り、心を主に向ける時間を大切にしよう。生きている限り、新しく主を知っていきたい。目がはっきりと見えるように祈ろう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係