「人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心の ゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです」Ⅰペテ ロ2:19

御言葉は、信仰者には試練があり、苦しみを受けると言っている。キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみを賜っていると。しかし自分の罪や落ち度で、争いになり、苦しむのは迫害ではない。信仰ゆえの苦難ではなく、信仰以前の問題だ。誰でも人に迷惑をかけるなら非難される。

 

だが自分の落ち度ゆえでなく、キリストゆえに受ける苦しみがある。御言葉がそう言っている。今の日本では、信じたからと言って、殉教する事はないし、公安に連れて行かれる事もない。私たちなら、信仰ゆえに仲間はずれにされ、悪口、嘲笑、侮蔑、無視の対象になる事かも知れない。信仰ゆえに、家を出なければならないかも知れない。

 

しかしキリストゆえの苦しみなら、恥じる事はない。かえってその事のゆえに神を崇めよと。義のために迫害されるなら幸い、理不尽に悪口雑言を言われるのは幸いだと。喜べ、喜び踊れと。ある人が家族が信仰に反対で、つらい事が起きた。思わず家を飛び出し、教会に行った。

 

「異邦人の中にあって、立派にふるまいなさい」「不当な苦しみを受けながらも・・悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです・・善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは神に喜ばれることです。あなたがたが召されたのは、実にそのためです・・」牧師からの御言葉により、祈りにより励まされ「帰ります」と、新たに力を受けて、帰って行った。主のゆえ、信仰ゆえのものであるなら受け取ろうと、心が変えられた。

 

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自分にも非があり、落ち度があるなら、相手と争いが起きて当然だ。だが時に、理不尽な、不当な苦しみを受ける事がある。それを主のゆえに忍耐して行く時、主に喜ばれると。十字架を負われた主に従う事であり、それが証しとして用いられて行く。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係