「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちの負いめの ある人たちを赦しました」マタイ6:12

ある人が、学生時代に友人たちと争いになり、中傷され、ある事無い事、悪口を言いふらされ、非常に傷つき、悔しい思いをした。攻撃して来た子たちを赦せない思いで、ずっと恨み憎んでいた。卒業後、彼らとは別々の道になった。それから自分は人一倍努力して、頑張って頑張って生きて来た。

 

しかしその動機は、何としてでも、彼らを見返したい、ただその一心だった。執念深く恨んでいた。何かにつけて懸命に努力したが、そこに喜びは無かった。相手が目に見える形で、目の前にいなかったとしても、恨みが残るなら、どんなに距離が離れていても、ずっと囚われの身だ。自分の人生が恨む相手にコントロールされてしまう。

 

いつも思いに上っては、心に影を落とす。やがて教会に行くようになり、御言葉を学んで行った。その中で教えられて行き、確かに相手は悪いが、しかし自分にも非があったと気づかされた。今までの頑張りの動機が間違っていたこと、自分が相手を恨むことは自分の問題であると知った。自分の憎しみや恨みが、自分自身を苦しめていることも教えられた。

 

そしてそれは絶対に何があっても赦したくない自我から来ていた。光に照らされるように、自分の姿が見せられた。解放されたいと願った。自分が相手を赦すことが解放だった。悔い改めて、赦しますと意志を主に向けて行った。人を赦せない思いは、サタンのわなであり、策略だと言っている。がんじがらめにされてしまう。主に助けを求めて祈ろう。自由にして下さる。

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赦したくないからい相手の悪いところを数えてしまう。いつまでも憎しみの奴隷だ。一刻もはやく憎んでいる事を悔い改め、主の前に預けていこう。主が苦しみから解放してくださる。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係