「人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい」エペソ6:7

会社で、バイト先で、目にするだろうか。上司や雇用主がいる時には、真面目に仕事をするが、いない時はサボり、適当な手抜き仕事をする。子供たちに、オモチャを片づけるようにと言うと、遊んでも、これは自分が出した物じゃないと言う。自分が出してないのに、何で片づけなければならないのかと。肉の性質は少しでも楽をしたいし、少しでも損をするのは嫌だ。

 

肉は、どこまでも自分の損得が判断基準となる。メリットも無いのに、労力も時間も使いたくない。しかし御霊を宿した新しい性質は、今までと違う新しい原理で動く。自分の損得でなく、自分が損になったとしても、主の御心を行おうとする。主に喜ばれたいと願うからだ。それは、人のごきげんとりのような、うわべの仕え方ではなく、主を畏れかしこみ、真心から従う事だとある。

 

人が見ている時だけ、懸命に動き、人が見ているから、へつらうなら、それはうわべの仕え方だと。真心から、つまり正直に仕えて行くようにと。そしてそれを根本的に、人に対してではなく、主に対してするようにと。もし、強いられた事であったとしても、人に対してではなく、主に対してするようにという事だ。

 

人目のためにでなく、目の前の事を、主に対してする事が、主に従う事になるのだと。自分を中心に生き、どこまでも損得でしか考えられず、動けなかった者が、主の御心を、主が喜ばれる事を中心に考え、生きる事が出来る。これこそ大きな奇跡であり、新しく生まれた、御霊の支配に生きている事であり、これこそ御霊の喜びだ。

 

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自己中心で、自分のメリットで動く者が、主を仰ぎ、主のために生きたいと願うことが、すでに奇跡だ。主のみわざだ。新しい性質に生きることが出来る事は、大きな奇跡だ。そして報いがあると。培われた肉は根深くあらがう。主を仰げるよう、今日も祈っていよう。