「見よ。粘土が、陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある」エレミヤ18:6

ある人が証しした。「教会へ行くのは嫌でなく、聖書の学びも抵抗なく、良い学びと思い、学ぶのですが、長い間なかなか神様がわかりませんでした。10年経てやっと救われて、でもその後も、神様を知るのに、かなりかかりました。やはり砕かれないと、神様はわからないですねえ。砕かれて、神様を知れました。今は喜びがあり、感謝でならないです」と。

 

救われてからも、自分は何だか変わらない、というのは自我が砕かれていないところによると言われている。まさにこの頑固な自我を砕くために、主は試練や困難を送られる。この人さえいなければと思う、どうしても嫌な相手が送られる。対人関係で悩み、苦しくてたまらないので、職場を変えるが、次の場所でも、同じような難しい相手に出会う。

 

この人さえいなければ、人生快適で、幸せなのに、なんでこの人なのかという相手が、職場に、周囲に置かれている。この相手でなければ上手く行くのに、と思うのだが、そうであれば自分は全く変わらない。つらく苦しいばかりだ。

 

同じ事が、何度も繰り返される事により、もしかして、自分の問題か?と考え始める。そして状況ではなく、相手ではなく、「主よ、私を変えて下さい」の祈りがなされて行く時に、初めて事態が動いて行く。そして祈りに答えられ、自分が変えられて行く。平安無く苦しかった心が、喜びと平安に変えられて行く。今、目の前にある出来事は、取り扱いだろうか。祈ろう。平安へと導かれる。

 

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頑なで強固な自我は、主の十字架で自分も一緒に死んでいることを信じ、日常生活で砕きの御手を受け入れて行く時に、痛いが砕かれる。様々な事が起きているが、目が開かれるよう祈ろう。今、目の前の出来事は主から来ていて、成長へと導いて下さっている。