「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります」詩篇119:68 

問題や悩みは、誰も好きではない。つらい痛い目には会いたくない。苦しみはできれば避けたいし、平穏な日々こそが、誰しもの願いだ。人々が偶像を信心するのは、まさにそのためだ。問題の無い事が幸せだ。しかし御言葉は、正反対のことを言っている。「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました」と。

 

苦しみがあったからこそ、過ちから救われ、今は守られて、主の言葉に従う事がができていると。つまり自分が、過ちを犯したのは、苦しみに会っていなかったからだという事になる。試練を通して、砕かれ、練られ、鍛えられていないからだと。訓練されていないので、過ちを犯すと。

 

そしてまた、「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした私はそれであなたのおきてを学びました」と。苦しみに会った事を通して、霊的学びが与えられて、主を知れて、幸せだったと。逆に言えば、苦しみに会わない事は、不幸せだと。この世の価値観と、聖書の価値観は何と異なる事だろう。正反対だ。

 

苦しみにより、そこでしか学べない多くの訓練を受ける。それは身について来る。苦しみの中でこそ、主に拠り頼み、すがりつく事を頭でなく、御霊によって、膚で知る。真剣に主に向かい、叉、自分のこれまでも振り返り、主の御心を尋ね求める。自分の自我も見せられる。あれもこれも自我のゆえである事に気づかされる。主を信じているつもりが、つもりであって、不信仰に気づかされる。

 

苦しみに会うのは痛いが、主が私たちに道を教えるためであり、その中で、御言葉の力、御言葉によって生きる事を実際に知る時だ。 

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試練や苦しみは、決して好きではないが、振り返る時、沢山の学びを与えられたと感謝できる。砕かれ、練られ、訓練を受けて、祝福とされている。主が量って与えて下さっている。これからも試練があるが、まずきちんと受け止められるよう、祈ろう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係