「あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです」マタイ7:2

犯罪を犯すと、裁判で法律に照らして判定される。だが「さばくな」の「さばく」とは、法律でなく、自分の都合の良い物差しで判定する事だ。自分の主観的な独断と偏見による間違った物差しだ。人をさばく時、自分は正しいと思い込んでいる。それは自分を神の座に置く事になり、しかも自らの事は棚上げだ。

 

実は、さばく自分の内に同じものがあると言われている。だからこそ見える。罪の性質は、人をさばく。人を下に見る事により、自分が優位に立った気になる。しかし真のさばきは神にしかできない。人は、相手の外側しか見えず、内は見えないので、動機もわからない。一面的に見たうわべでしか判断できない。

 

さばく事から守られるためには、まず自分の思いのメガネに気づく事だ。御霊が気づかせて下さる。そして、それをはずす事だ。それが「梁」になってしまう。又、主は、さばくなと言われたが、同時に「うわべによってさばかず、正しいさばきをせよ」と言われている。正しくさばけと。

 

そして「実によって彼らを見分けることができる」「なぜ自分から進んで、何が正しいかを判断しないのか」と。「さばくな」を、判断もするなと勘違いするが、そうではない。正しい判断をせよ、悪い者を見分けよと。でなければ、聖なるものを犬に与えるな、豚に真珠を投げるなとの命令を実行する事は不可能だ。

 

自分の肉の思いを捨てて、御霊に従う時に、主の命令を実行し、肉のさばきから守られ、且つ正しい判断をする事ができる。そして、主の栄光が現れるために用いられる。

 

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だいたい自分の思い通りでないから裁くと言われるが、自分のメガネと物差しで裁いている時、気づきが与えられるように、祈ろう。又、裁きを恐れて、判断を回避する事からも守られるように。正しい識別と判断が与えられるよう祈ろう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係