「私たちの神、主よ。今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、あなただけが主であることを知りましょう」イザヤ37;20

ヒゼキヤ王の時に、アッシリヤのセナケリブがユダの町々を攻め取った。彼はラブシャケを送り、ヒゼキヤや人々を脅し、自軍の強力な軍隊を誇示した。そしてヒゼキヤは、主が救い出すというが、そんな言葉に騙されるな、信じるなと、揺さぶりをかけた。この危機に際し、ヒゼキヤはどうしたのか。彼は衣を裂き、荒布をまとい主の宮へ行き「祈った」のだ。

 

そしてイザヤにも祈りを要請した。私たちに挑む悪魔も同様で絶えず揺さぶって来る。経済的苦境、難しい対人関係、仕事の悩み、信仰ゆえの戦い・・様々な問題に、自身の無力を見せつけて来る。祈っても無駄だ、神を信じて何になる、何も変わらない・・。信仰に立たせないように、諦めるように、失望するように、攻撃をしかける。又、妥協して生きるように誘惑する。

 

サタンに従うなら、楽に生きられ、世の成功を手にできると。サタンの攻撃だ。こんな時には「祈り」が対抗手段だ。ヒゼキヤもイザヤも祈った。その時、主は奇跡を行われた。「彼はもと来た道から引き返し、この町には入らない」「わたしはこの町を守って、これを救う」と。そして、使いが出て行き、185,000人を討ち取った。

 

その結果、セナケリブは立ち去った。祈りが聞かれた。信仰に揺さぶりをかけて来るサタン、今も耳元にささやいているだろうか。「信じても無駄、祈っても無駄、何も変わらない、解決などない・・」サタンの攻撃だ。対抗は「祈り」秘訣は「祈り」だ。「わたしは聞いた」主は聞いていて下さる。

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サタンは、祈っても何も変わらない、それより行動を起こすべきだと思いを差し込んでくる。サタンに祈りを取られていると気づこう。目を覚まし、御霊の助けを受けて、ことごとく祈ろう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係