「神は柴の中から彼を呼び、『モーセ、モーセ』と仰せられた。彼は『はい。ここにおります』と答えた」出エジプト3:4

主はある時、人が高慢に陥らないように、人の計画を阻止される。モーセはエジプトの王子だったが、40歳の時に、同胞が虐げられているのを見て、救出を計画した。自分だからこそ出来ると。だが肉の思いであり、肉の良かれと思う計画だった。主から発したものでは無かった。

 

その時に看守を殺してしまい、失敗してしまった。そのためミデヤンの地に逃れる事になった。何も無い見渡す限りの荒野で、40年間、羊飼いの日々を送った。以前は世の栄華、地位、富と何もかもを持っていた。能力があり、文武両道、人脈を持ち、脚光を浴び、何の不自由もなく、輝かしい将来を約束されていた。

 

一転、全く何もない荒野だ。スポットライトを浴びる事も、かつての栄光も皆無だ。来る日も来る日も、羊を追い、刺激も変化も無い平凡な日々が、40年だ。その中で妻を持ち、子供も生まれ、平凡な落ち着いた幸せの中にいたかも知れない。しかしこの荒野こそが、実は主のご計画であり、神のモーセへの訓練、整えの学校であった。

 

自信に満ちたモーセは砕かれた。もはや自分の計画でなく、主の計画に従えるようにとの訓練、整えであった。主のわざは着実に進められ、荒野の舞台でモーセを造り変えられた。80歳になった時、主の時は満ちた。今更、何ができようと思ったモーセこそが、主にはふさわしい。

 

民をエジプトから救い出す指導者として、召し出された。もし今、こんなはずではない場に、置かれているなら、主はあなたを取り扱い、砕き整えておられる。主の御手の中だ。ご計画があり、主の整えの最中だ。目の前の事に忠実であり続けよう。

 

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主はずっとモーセを握り、目を留め、造り変えて行かれた。信仰人生で「なぜ?どうして?」との事柄が起きる。しかし無駄なものは一つも無い。一つ一つの試練を用いて、砕き、練り、造り上げられる。主の器として用いて下さるためだ。どんな時にも希望がある。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係