「こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた」創世記11:8

創世の初めは、全地は一つ言葉だった。自由に意思疎通ができていた。シヌアルの平地に人々は定住し、石の代わりに、れんがを作る技術が与えられ、れんがと瀝青で建築物を作ることができた。スムーズに対話ができ、肥沃な地で、建築の技術も与えられ、すべては神の大いなる恵みであった。

 

しかし、その神の恵みに感謝し、神に栄光を帰するのではなく、人間は、自分の名をあげ、自分の栄光、名誉、賞賛を求め、自分が神にとって代わった。神の恵みで賜った能力を、自分の栄光のために使うようになった。自分、自分、自分・・。これがアダムからの罪だ。

 

「その内に」とあり、最初は良かったのだろうが、その内に方向が狂って来た。「我々は、頂きが天に届く塔を建て」と。とんでもない事になって行った。主は言葉を混乱させ、意思疎通が不能にされた。その結果、塔の建築は不可能になり、中止になった。塔建築は失敗した。主が阻止された。主は、御心をそれた高ぶりを止められる。

 

そして人々は全地に散らされた。原因は主への高慢だった。彼らの塔建設は「われわれが全地に散らされるといけないから」という動機からだったが、逆に全地に散らされる結果となった。この所で学ぶ事ができる。互いに意思疎通ができない時、そこに「高慢」が潜んでいないか。自分が神になり、自己義、自己中心、自己主張、自分、自分・・。真の一致は、主の御前にへりくだり、人の前にへりくだるところにある。そこには必ず平安と喜びがあり、主の栄光が現れる。

 

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高慢があるところに、意思疎通が困難になり、分裂が生じる。様々な集まりや、対人関係で起きる。友人間、家庭の中、ギクシャクする時に、高慢がないか考えてみよう。逆に、へりくだるところに平安と平和、和合、潤いが生まれて来る。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係