「律法の専門家が・・イエスをためそうとして言った『先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょ うか』」ルカ10:25

律法学者が主に質問をした。何をしたら、永遠の命を受けられるのかと。しかし「ためそうとして」とあり、真摯な思いで質問したのでなく、罠にかけ、主を試すためであった。この学者は答えがわかっている。律法の専門家なのだから。すると主は、逆に質問された。

 

「律法には何と書いてあるか」そして「あなたはどう読んでいるか」と。「あなたは」どうなのか。どう理解しているか、あなたの現実はどうなのかと。学者は、神を愛し、隣人を愛する事と、模範解答をした。そこで主は、では、その事を実行せよと、そうすればいのちを得ると。すると学者は「自分の隣人とは誰か」と質問した。

 

その動機が「自分の正しさを示そうとして」であった。自分を正当化するという事は、何かやましいものがあって、繕わなねばならないという事だ。隣人すべてを愛せない事がわかっていたのかも知れない。当時のユダヤ人は同胞は隣人で、外国人は隣人ではなかった。同胞なら愛せても、それ以外は愛せない。

 

ありのままを主に告げればよかったが、自己正当化した。そこで主は、良きサマリヤ人の話をされた。「誰が隣人になったか」と。隣人は誰かではなく、隣人になる事が大事だと。そして、良きサマリヤ人は、イエス・キリストであり、神を愛し、人を愛する事は、自分の力では出来ない。到底不可能だからこそ、救い主が必要であり、主が、神と人を愛せるようにして下さる。

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煩わしい事があればすぐに身を引いてしまう者だと、愛せない事を認めていたい。無いから主に求めることができる。主のために喜んで隣人を愛する者に主がしてくださる。

 

  発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係