「イエスはすわって舟から群衆を教えられた。話が終わると、シモンに『深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい』」ルカ5: 3

ペテロは、この日、徹夜で漁をしたが、一匹も獲れなかった。身体も疲れたが、家に持って帰る糧も無い。心身共に重い疲労感で、群衆が聞き入る主の話を聞く事もなく、網を洗っていた。一刻も早く帰って休みたい。そんな時に、主がペテロの舟に乗られ、少し出すよう頼まれた。先生の頼みなので、ペテロはしぶしぶ舟を出した。

 

主は舟から群衆を教えられた。ペテロは早く帰りたいが自分の舟なので、仕方なく、しかし御言葉を聞いた。そして話が終わると、主は「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と。だが昼間は魚は深くもぐっていて、いない。それで徹夜の漁をする。魚は獲れるわけがない。常識と自分の思いを通して、御言葉を拒むのか、主の言葉に従うのか。ペテロはどうしたのか。

 

「夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でも、おことばどおり、網をおろしてみましょう」。これが信仰だ。最初にペテロは、夜通し働いたが、と言っている。でも主の言葉に従い、網をおろしてみると。洗った網をもう一度は、重労働だ。だが「お言葉通り」と、自分の経験値や思いでなく、主の言葉に重心を移した。御言葉に優先順位を変えた。

 

その時に奇跡が起きた。驚くべき大漁で、あり得ない事が起きた。主の臨在に畏れを覚え、主の足もとにひれ伏した。私たちは自分のやり方、自分の思いを捨てられないだろうか。今、見える所と、御言葉が異なるだろうか。又、今まで何度やってもだめだったと、諦めてしまっている事があるだろうか。主の言葉の方に従い、今一度網を下ろしてみよう。主が沢山の魚を備えておられる。

 

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ペテロは徹夜の漁で疲れていたし、常識的、物理的には、朝に魚はいない。そして昨夜は一匹も捕れなかった。見える所では、捕れるはずがない。「でも」が大切だ。ここが大きな祝福の分かれ目だ。私たちも色々思いはあるが、「でも」御言葉に従ってみよう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係