「十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった」ヨハネ20:24

弟子たちが恐れて隠れていた家に、よみがえられた主が、ご自身を現された。そして「平安があなたがたにあるように」と。「弟子たちは、主を見て喜んだ」とあり、どんなに嬉しかった事だろう。興奮し、喜びに満ち溢れた。しかし、その場にトマスだけが不在だった。

 

自分がいなかったのだが、「自分がいない時になぜ?」「自分だけがいないのに?」と、不満な思いだったかも知れない。「私たちは主を見た」と大喜びの弟子たちに、すねたように「その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じない」と言った。

 

そしてその八日後、今度はトマスが一緒にいる、弟子たちの部屋に、再びご自身を現された。主は、そのトマスに「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい」と、トマスが言ったままを言われた。「決して信じない」に対して「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と。

 

トマスの心の中をすべて何もかも見ておられ、そしてそれが受け止られている。その主の愛に包み込まれた。自分で見なければ、

決して信じないと言ったそんな自分を受け止め、向き合って下さった主。まさにそのトマスのために、現れて下さったような状況ではないか。彼は、その主の愛に触れ、指を釘跡やわきに差し入れなかった。しかし「私の」主、「私の」神と、信仰告白が溢れ出た。

 

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主に会えなかったトマスは、自分で確かめなければ「決して」信じないと言った。だがトマスは主の大きな愛に触れ、結果的に「私の主、私の神」と最高の信仰告白をした。主はいつも、すべてを最善に導かれる。私たちにも、今、目の前の事をそのようにして下さる。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係