「すべての懲らしめは・・後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」へブル12:11

私たちが望むのは、とにかく問題が無い事、平穏無事な事だろうか。家内安全、商売繁盛、無病息災、五穀豊穣だろうか。生涯が、問題の無いように、いつも安全な所に身を置いていたい。だが一生涯、もし何一つ問題は無く、平穏であれば、何の必要も無いので、神を求める事は決して無いのではないか。

 

順風の時は神無しで生きる事ができる。自分の力で問題なく生きられるので、神を必要としない。自分にはどうにも出来ない、絶体絶命の窮地で、初めて人は神を求める。悩みや、困難は、私たちを神に近づけてくれる。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意・・これらの実はいつ結ぶのだろう。愛はどうだろう。漠然と抽象的になら、幾らでも愛する事ができて、簡単に全世界を愛せる。

 

だが、現実の目の前の、嫌な相手を愛せない。どうしても愛せない相手が置かれて、愛せない自分を知る。悩み、苦しみ、自らの限界を認め、主に明け渡した時に、御霊の愛が与えられる。全く喜べない環境、感謝などできない状況に置かれて初めて、主の取り扱いにより、御霊の喜びを知る。平安が全く持てない境遇を通らされて、真の平安を知る。

 

寛容になれない状況、全く寛容のかけらすら無い自分に向き合い、主によって寛容な者と変えられる。一つ一つの出来事を通り、醜い、どうしようもない罪人である真の自分を知り、主の品性へと変えられて行く。窮地に陥り、御霊の実が与えられて行く。試練は望まないが、試練を通して成長させられて行く。試練は感謝だ。

 

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試練に会う時、この上もない喜びと思えと。試練により忍耐が生じ霊的に成長すると。成長は試練による。人は順境の時は、無意識ながら自力で生きて行く。主を頼らずとも生きられるからだ。主からの訓練は、真に主と向き合わせられ、必ず実を結ばせられて行く。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係