「必ず、わたしの考えたとおりに事は成り、わたしの計ったとおりに成就する」イザヤ14:24

私たちは主を知る以前は、自分の思い通りに生きて来た。思い通りになると喜び、時には思い通りにならず、挫折を味わった。自分の思いは非常に強いので、クリスチャンになっても、根深く培われている。そのため、自分の思いで生きて行ってしまう。ある人が、自分の思いだと気づかないまま、主に、自分の願いを祈り、そしてそのようにならないと、聞かれないと思い、ガッカリ落胆した。

 

何とかそのようにとなおも祈った。しかしその祈りは、全く聞かれなかったのだ。「どうして?」の悶々を通りながら、その事を「なぜですか」と問うて行った。その祈りの中で初めて、自分の願い、望みが、自我からの自分中心である事を気づかされ、教えられた。主が願われる、主の御心ではなく、どこまでも自己中心の願いでしかなかった。

 

「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る」、人の心に多くの計画があると言っているが、自分の思いと自分のプランがあるばかりだった。「わたしのはかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる」の通り、主の計り事、主の望む事がある事を覚え、主のみ思いが成るようにと祈りを変えた。

 

その時に、自分の思いでいっぱいの自分が変えられて行った。主が望む事が、成し遂げられて行くのであれば、自分の思いや自分の望み通りでなくても、それがベストなのであり、受け入れて行けるよう祈った。その時、初めて平安を経験した。自分の思いから離れられるのは、何と平安なのだろう。

 

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主の御心が成るのであって、自分の思いが成るのではない。祈りとは、主の御心を尋ね求めるプロセスと言われるが、祈りの中で肉の思いが気づかされ示され、主のみ思いへと導かれ変えられて行く。祈りが大切で、必要だ。まず自分の計画を祈りに持って行こう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係