「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです」 ルカ12:15

愚かな金持ちが出て来るが、どこが愚かだったのだろう。彼は「安心」の拠り所を富に置いていた。お金さえあれば、幸せだと考えていた。財産を更に蓄えたなら、楽しめると思っていた。富が、自分を幸せにしてくれると信じていたからだ。富、地位、名誉、異性・・何かに執着して、それが自分にとって絶対的なものとなるなら、それが偶像だ。

 

そして「私の」倉、「私の」穀物や財産、「自分の」たましいと、彼にとり、すべてのものが「私の」ものだった。神のため、人のために使おうとの思いは皆無だった。私たちは、何一つ持たずにこの世に来て、何一つ持って出る事も出来ない。今ある命も富も能力も時間も、すべては神の賜物だ。一人一人に預けられ、任せられている。

 

それをしまい込んでいるだろうか。自分中心に、自分の思いで、使っているだろうか。主のため、人のために用いる時に、大きな喜びを得、生き生きと生きる事ができ、天でも豊かに報いられる。御心に従って、どんどん用いて行こう。そして、彼は財産を倉にしまい込めば、自分の「たましい」も保証されると考えた。

 

「愚か者。おまえのたましいは、今夜、おまえから取り去られる」。たましいは、神の領域だ。誰も神に代わる事はできない。自分も必ずいつか死ぬ事を考えていなかった事だ。私たちも、自分の死の事はわからない。「自分のために蓄えても、神の前に富まない者」ではなく、主に喜ばれるよう生きる事が、神の前に富む事だ。

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心がこの世のもので一杯になっている時、神との関係が飛んでしまう。私の、私のと自分と自分の集めた物に頼っていないか。神の前に裸で立つ日が来ることをいつも覚えていたい。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係