「律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリス トから離れ、恵みから落ちてしまったのです」ガラテヤ4:4

「心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ」とあるが、邪悪な良心とは、何だろう。良心とは良い心であり、その良い心が邪悪という事になる。不思議な言葉だ。ここでは、主の十字架の血潮だけでは不足とし、そこに行いを付け加える、つまり、自分の善行によって、主に受け入れてもらおう、愛されようとする事だ。

 

もし、主の愛を得たくて、受け入れて欲しくて、奉仕をし献げものをするなら、それは人間の力によるものであり、主の十字架を無意味にしてしまう。「私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です」だ。主はいたずらに、無駄に死なれた事になってしまう。

 

良心のとがめがつらいので、良心のとがめを無くしたくて、奉仕や献げもの、善行、親切をしているだろうか。善行で、良心のとがめを無くそうとする、それを邪悪な良心と言っている。例えば、人を傷つける言葉や不機嫌な態度で、良心のとがめを感じると、優しく親切な行いをして、自分の内でチャラにする。善行で、良心をなだめる。

 

これなら「キリストから離れ、恵みから落ちてしまった」事になると。これは御霊から来る平安ではない。主の血潮のみが私たちの良心のとがめを消し去る。完全に消し去る。平安を与えられ、真心から神に近づくことができるようにされる。何か主の血潮以外のものに依存しているだろうか。きよめていただこう。

 

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罪を犯すと、このままでは行けないので、少しはましになって、御前に出ようとしたり。人に悪い態度をすると、親切な行いで良心をなだめようとする。これらが恵みから落ちてしまうことになる。ありのまま、すぐに御前に行き、血潮により頼もう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係