「ところが取税人は、遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください』」ルカ18:13

謝罪に関してどうだろう。大人でも、子供同士の喧嘩でも、一方が謝罪した時に、受け入れてもらえない場合に、逆ギレする場面を見るだろうか。腹を立てて、攻撃的になる。それは真に謝罪していないことを暴露している。口先だけの謝罪であり、事実、悪い事をしたのだが、本当は悪いと思っていない。自己正当化だ。相手が悪いから、こうなったと心では思っている。

 

だから、攻撃、非難に転じる。もし真の謝罪で、真の悔い改めなら、自分の非が、はっきりわかっていて、悔いくずおれる。自分は、到底赦されるなどと思えず、赦される事が驚きだ。パリサイ人と取税人の祈りの箇所で、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」と言った。

 

心から悔い改めていた彼は義と認められて帰った。又、ダビデがバテシバとの姦淫とその夫ウリヤ殺害の罪を犯した時に、ナタンの指摘に、「私は主に対して罪を犯した」と心から悔い改めた。即「主もまた、あたなの罪を見過ごしてくださった」と罪の赦しを受けた。

 

そして「この事で、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる子は必ず死ぬ」と言われた時に、ダビデはへりくだって、その取り扱いを厳粛に真摯に受け入れた。そこには不満も、反抗も無く、「主の宮に入り、礼拝した」。主にひれ伏し、御名を崇めた。

 

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御霊に導かれた悔い改めは、真に罪がわかり、悔いくずおれる。人の事など全く見えない。ただただ自分の罪が見えるばかりだ。

取税人が、こんな罪人の私をあわれんでくださいと言った言葉の通りだ。そして、その罪が赦された、安堵と平安を経験する。 

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係