「あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる」詩編103:5

私たちは、主を信じて以来、祈る事を教えられ、祈る恵みにあずかっている。主に祈り求め、数えきれない祈りが答えられた事を、感謝している事だろう。同時に、答えられなかった祈りも多く経験して来た。そして、振り返ってみた時に、答えられなかったあの願い、この願い・・答えられずに良かったという事を見いだす。

 

あの時、この時、自己中心なあの願い、この願いに、その通りに答えられていたら、どんなに方向違いの、間違った道に行っていただろうか。私たちは、目先の事しか見えないし、肉の思いも、欲も強く、自分の真の必要をわかっているわけではない。どうしても自分軸で、自分を中心に物事を見てしまうので、正しく見えていない。

 

あの時、あの祈りが答えられていたら、自分はどんなに高慢になって、恐ろしい事になっていただろう。道が閉ざされた事で、心砕かれ、へりくだらされ、高慢になる事から守られた。むしろ素晴らしい益で、良い事であった。主に拠り頼むようにされた。思い通りになっていたら、どうなっていたかわからない。

 

自分はこれが、あれが、絶対に最善と思うが、目の前の美味しい草をあさって迷子になる羊のごとく、目先の事しか見えていない。主は、遙か先まで何もかも見通された上での最善を用意して下さっている。

自分の思う最善でなく、主が思われる最善を求めて行けたらどんなに良いだろう。自分の思いを横に置いて、主のみ思いを求めてみよう。主が下さるものは、どうであれ、常に良いものだ。

 

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色々な人々が、願いの道が閉じられて、高慢から守られたと言う。思い通りの人生なら、どんなに高慢で、恐ろしい事になっていたかと。閉ざされたのは、良い事だったと。自分の思う良い事と、主の良い事は違う。主は良いものしか与えられず、良いもので満たして下さる。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係