「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい」エペソ5:20

御霊の思いと肉の葛藤を日々に経験する。ある母親が、出勤しようとする時に、登校前の子供が、提出物のプリントが無いと騒ぐ。登校時刻が迫ってる。母親も仕事に出なければならない。慌ただしい朝に、家中探し回るが、無い。母親はイライラし、怒りが湧いて来る。いつも前日に準備するようにと、口うるさく言っている。

 

「何で、昨日の内に準備しないのよ!」腹が立って仕方がない。時間が無い。その間も時刻は迫る。子供は焦って、泣きべそをかいている。母親は「すべての事について感謝しなさい」が、ふっと頭に浮かぶ。この事も、信仰により感謝なのだと思う。しかし、一方では腹が立って、怒りがおさまらない。自我で、肉だ。心の内で子供を責め立てている。

 

この事は感謝なのだという御霊からの思いと、片方では肉のいら立ちが交錯する。いよいよ時間切れとなり、「神様!この事態を感謝します!」と感謝を選択した。その途端、子供が「あった!」と叫んだ。思いもよらぬ所から出て来た。主を感じた瞬間だった。一見不都合な出来事の背後に、必ず主の素晴らしい取り扱い、ご計画がある。

 

感謝する事は、その事柄に主を認める事であり、信仰を献げることになる。主はその信仰に働かれ、信じた通りになって行く。日々のすべての出来事に主を認めて、感謝して行く時、主は信仰を成長させて行って下さる。目の前の事態に主を認めることを求められているだろうか。

 

・・・・・・・・・・・・・

感謝は、「すべてのことについて」とあり、良い、ハピーな事だけでなく、一見、不都合な事も含まれる。そこに主を認めて行くことが信仰だ。「あなたの行く所、どこにおいても、主を認めよ」とあり、不都合な事に主を認めて行く時、それが祝福へと導かれて行く事を見る。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係