「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」へブル12:2

不信仰とは、信仰が足らない事ではない。不信仰とは主を仰がず、自分の力、自分の判断、自分の知恵を信じることだ。つまり、主を頼らず、自分を神として、自分の力で生きることだ。不信仰は、自分の人生の全主導権を自分が堅く握って生きる。つまり、車の運転席に自分が座っている。主は助手席だ。自分主導で思い通りに生きて行く。

 

又、自分主導なので、問題に直面した時、すべてが自分の肩にかかる。だから負いきれずに思い煩いでいっぱいになる。しかし、むしろ真面目に生きているつもりなので、気づかない。不信仰とは、自分のための神であり、自分がより良く生きるための神、あくまでも軸が自分であり、自我だ。見ているのは主でなく、いつも自分自身だ。

 

不信仰とは、信仰の量の不足のように思うが、主を仰がず、主に頼らないことだ。信仰とは、自分の思いを捨てて、主の判断、知恵、主の心を求めて、主に頼って生きることだ。自分は助手席に座り、主に運転席に座っていただく事であり、自分と自分の人生を、主に明け渡して行くことだ。

 

主を仰いで、生きて行く時、必ず自分が変えられて行く。自分の損得でなく、主の御心を求めるように、少しずつ変えられて行く。奇跡だ。主の喜ばれることを求め、それが自分にとって不利益であり、損になろうと従って行く。その時、御霊の喜びと平安、真の心の満たしを経験する。そして御霊によって歩んで行ける。

 

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自己中心に、自分のために生きて来た者が、主のために生きようとするとは、何と感謝な事だろう。奇跡だ。自分が変えられている。主を見ることが、信仰だ。溢れる愛で、愛し続けて下さっている主を、見ていよう。目が離れている時は、気づかせて頂こう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係