「私のたましいを御手にゆだねます。真実の神、主よ。あなたは私を贖い出してくださいました」詩篇31:5

あなたも経験するだろうか。神の御心が成るようにと祈るのだが、実は自分の思いでいっぱいで、口では御心御心なのだが、心では自分の思いに固執していたりする。しかし反抗する気などなく、一応はそれが正しいので、御心が成るようにと思っている。それだけに自分でも気づかない。

 

自分では御心を願っているつもりだが、後で振り返ると、委ねる事の意味もわかっておらず、主を信頼もしていなかったとわかる。説教で、学びで、主に委ねる事の大切さを教えられるので、それが大事と思い、そうしている「つもり」だが、実は自分の思いを握って放さない。しばしば、自分がそうあればよいと思う事を、実際そうだと勘違いしてしまう。

 

 

反抗していればわかるが、逆らうつもりはなく、却って気づかない。何かが漠然としているのだ。心に確信と満たしが無い。それで自分でも、何かが違うと感じている。この問題点は、委ねることができていないところにある。心を御霊で照らされる時に、委ねていない自分を見いだす。しかし自分を明け渡すことは難しい。

 

この事を認めることが、前進のためのまず一歩だ。握っているものは何だろう。まず委ねられないと認めて祈ろう。主が「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」と祈られた。主にも思いがあられたが、祈りの中で、御心を選び取って行かれた。主は愛して、理解もして下さっているので、一歩一歩を手を取って導いて下さる。

 

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御心を求める時に、自分の思いは強く、わかっているなら祈りに持って行けるが、気づかない場合も多い。自分の強い思いがあると、主の御心を求めるのだが、わからない。その時に、右でも左でも御心に従いますと、思いを手放し、委ねると、御心がわかって来る。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係