「もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです」へブル12:8

信仰人生における、神の祝福をしばしば勘違いする。受験合格は祝福で、不合格は祝福されていないと思う。商売は繁盛で、家族は皆、健康で、喜ばしい事、楽しい事が溢れている事が祝福だと。そして最後は天国で、めでたし、めでたしで終わると。祝福とは、幸せで楽しい事、問題が無く平穏無事、順風満帆の事だと、無意識に思っていないだろうか。

 

だから、ある日突如として、倒産したり、リストラになったり、家族が病気、受験失敗となれば、パニックになる。こんなはずではない。「何で?どうして?」神は祝福してくれるはずでは無いのか。未信者の親族からは、そんな事では信心している意味がない、と冷ややかに見られる。自分自身も不満が募り、爆発してくる。

 

しかし聖書は、そんな事は言っていない。信仰人生、順風満帆で問題が何もないなどとは、一言も言っていない。約束していない。むしろ多くの箇所に、試練、訓練、鍛錬、懲らしめ、刈り込みと沢山出て来る。試練でいっぱいだ。それは祝福なのだ。

 

新生し、その新しい性質が主に似るようにと、成長のために与えられている訓練だ。「愛」も勘違いしていないか。暖かい嬉しい喜ばしい感情的なもの、ハッピーな、楽しい事が愛と。しかし、聖書は「懲らしめは愛」だと言っている。

 

「主はその愛する者を懲らしめ」、必要な事は、根底の価値観を御言葉に修正する事だろうか。試練、訓練は、神の愛だ。愛されている証拠だ。愛されていないなら放っておかれる。私生児であって、本当の子ではないと。

 

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病気やけが、不合格、経済的苦境や別離、一見、負の出来事に会うと、つらくて、落ち込み、心が沈んでしまう。すると心寂しくなり、神に祝福されていないと感じてしまう。その時に、自分の感覚を取るのか、神の言葉を取るのか、試される。御言葉に心を向けていよう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係