「ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです」ヨハネ9:25

主は、盲人に不思議な事をされた。地面につばきをして、泥を作り、その泥を盲人の目に塗られたのだ。そしてシロアムの池へ行き洗うようにと。シロアムの池はエルサレムから1キロほどだが、目の見えない人が行くのは大変な事だ。もし初めての道なら、どんなに困難だろう。更に池は下って行かねばならない。

 

「そこで、彼は行って、洗った」とあるが、いい加減な気持ちでは、決して出来ない事だ。そんな事があるものかと信じないなら、まず行かない。しかし彼は言われた通りにした、その時に奇跡が起きて、見えるようになった。ここからが問題で、パリサイ人たちが、安息日にいやしたと、主を批判し、攻撃し、見えるようになった彼も連行され尋問された。

 

彼らにありのままを話したが、彼らは主を信じない。だが、見えるようになったという、目の前の事実は否定出来ない。「あの人を何だと思うのか」と聞かれ「預言者」だと答えた。彼は、主が誰なのか、よく知らなかったのだが、神に遣わされた人でなければ不可能だと思った。

 

彼らは、彼の両親を呼び出して、本当に生まれつき盲人なのかと確かめた。再度彼を呼び出し、主が罪人である事を認めるよう迫った。が、彼は盲目であったが、今は見えるという事実に、神から出ていなければ、そんな事は不可能だと言い切った。

 

会堂から追放された彼に、主がご自身を現わされた。彼は「主よ。私は信じます」と信じる者にされた。そして主を礼拝した。霊の目が開かれ、真の救いを得た。これこそが、神の栄光であった。

 

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彼は、目が物理的に見えるようになっただけでなく、霊の目が開かれて主の救いに入れられた。信仰が与えられた。私たちもそれぞれ様々な動機で、主のもとに来たが、一つの事をはっきりと知っている。以前は見えなかったのに、今は主が見える。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係