「神のわざがこの人に現れるためです」ヨハネ9:3

生まれつきの盲人を見て、弟子たちが主に質問した。「彼が盲目であるのは、誰が罪を犯したからか、この人か、両親か」。主は「この人でも、両親でもない」と答えられた。では、何のせいなのか。それには答えられず、「神のわざが現れるため」と言われた。本人や親のせいでなく、どこかに原因が有る無しでなく、神の栄光が現れるためであると。

 

古いこの世の価値観があり、何か苦しい事、負の事態が起こると、バチが当たったと思う。因果応報だ。無意識に自分の素行と結びつけて、あの事、この事が悪かったのか。どの罪の結果なのか。そして「何で?」「何で?」と、心がおさまらず、犯人捜しをする。しかし、そこに何の救いも解決もない。何も生まれない。

 

又、もし、仮に本人が罪を犯したとしても、悔い改めるなら、主の血潮のゆえに、全き赦しを受けることができる。そして親の罪の責任を子に問われる事は無い。「父親が子供のために殺されてはならない。子供が父親のために殺されてはならない」と。その苦しみは、神の素晴らしいみわざを経験するためだ。どんなに救われる事だろう。

 

その事が必ず益とされ祝福とされる。そこには絶望ではなく、希望がある。今、目の前の試練は、あなたの祝福のためだ。「何を教えて下さるためですか」と祈ろう。これらは、まず「主が盲人を見られた」ことから始まった。主は、あなたを愛し、慈しみ、絶えず目を注ぎ、目に留めていて下さる。じっと見つめて下さっている。

 

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どんなに苦しくつらいがあろうと、主がおられるので、どんな中でも希望がある。何という救いだろう。そして苦しみに対して、犯人捜しでなく、主の栄光が現れる事を信じるなら、どんなに平安と期待に変わるだろう。何と嬉しい事だろう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係