「このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました」Ⅱコリント12:8

時に私たちの思いと、主のみ心が大きく異なる事がある。主は私たちに、祈りをもって願えと言われ、祈りを喜んで下さる。そして御心なら、祈った通りに叶えられる。しかし御心でなければ、叶えられない。祈りは、物事が、自分の都合の良いようになる事ではない。私たちは自分の思い通りにしたいとの、肉の思いが強くある。自分の願い通りに、叶えて欲しい。

 

しかし、しばしば主のみ思いは異なる。例えば、私たちは、病気があるなら、その病気が治ることが、癒やしであり、祈りの答えだと思ってしまう。しかし、もし、その病を持ったままでも、御霊の喜びと平安、感謝に溢れた人生を送れるようにし、証しの人生にして下さる、それが答えであるかも知れない。祈りが聞かれるとは、必ずしも自分の思い通りになる事ではない。

 

障がいを負ったある人が、主に向き合い、長く祈りに祈った末に、最後には、もし、このままの方が主の栄光が現れるなら、このままで良いです、御心のままにと祈るに至った。結局は、私たちの目標は、神の栄光が現れることだ。パウロはトゲが取り去られるよう3度も祈ったが、主は、それが無いより、有る方が栄光が現れると言われた。

 

ある人はトゲが取られ、ある人はそのままにされる。どちらも主の栄光のためだ。私たちの「なぜ? なぜ?」と不満の部分を今一度、御霊の光に照らされ、受け取り直そう。あるいは、主の栄光のためではないだろうか。

 

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時に、祈りに、主からの「ノー」の答えがある。自分の願いとは違うが、主のご計画なら、更に良いものだと信じられる。祈りを積む中で初めて「ノー」の答えもわかるので、とにかく祈りに持って行こう。祈りの中で、答えも受け入れられるようにして下さる。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係