「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である」詩篇62:8

私たちは、この世の価値観が根深く培われている。ハッピーな事、喜ばしい事は善で、不幸は悪との思いがある。だから、何か一見良くない事、病気やけが、不合格、倒産、経済的苦境が起きると、「なぜ?どうして?」とパニックになり怪しむ。一見、悪い事だからだ。この世の宗教のように、信仰すれば、人生良いことづくめのはず、との思いがないろうか。

 

しかし聖書はそんな事は全く言っていない。信仰人生、試練があると繰り返し告げている。おとぎ話のように、信仰するなら、めでたし、めでたしで、最後は天国で終わるのではない。様々な試練が次々に臨む。自我が強く、頑なな私たちが造り変えられるためだ。

 

試練の意味は「今はわからないが、後でわかる」と言われ、後に、多々教えて下さるが、しかし、天国へ行ってからわかる事もある。それも踏まえていよう。1+1=2で、機械的にすべて割り切れる世界ではない。

 

ヨブのように、時として理由のわからない苦しみが臨む事がある。理由のわからない中で、なおも主の愛、真実、ご計画の最善を信じて行く事、主を待ち望む事、これが「信頼」するという事だ。この中でしか養われる事のない「忍耐」が養われ、このような中で初めて、主との関係が培われ、深められて行く。

 

詩篇記者のように、心の内の苦しみ、嘆き、悲しみ、怒り、を何もかも吐き出して、注ぎ出して、わからない中も、とにかく主の前を離れず、主に向き続けよう。そうする事が御心に適った事だ。必ず祝福される。

 

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自我が強く、頑固で、自分の思い通りに生きて行きたい者が、主に頼るには、砕かれるほかない。岩が砕かれ、耕されることは祝福だ。主に頼らず、自分で生きて行く者が、何のすべも無い時に、初めて主に頼る。そして主の素晴らしさを味わう者とされる。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係