主は、私たちに「わたしに求めよ」と言って下さる。「求めなさい。そうすれば与えられます」と。主は求めることを喜ばれ、私たちは、求める事ができる。しかし求める事において、注意する必要がある。イスラエルの人々は、主の御心、主の栄光など全く無く、激しい欲望にかられて、わがままに主に求めた。すると、主はその願うものを与えられたのだ。
あなたが、どうしても、どうあっても欲しいと執着し、身勝手に言い張るなら、時として主は、願ったものを与えられる。しかし、魂はやせ衰えると。激しい欲望にかられて求めて、手には入れたが、心は決して満たされる事がない。返って心は虚しくなる。それほど欲しいものを得たのに、心は平安も喜びも無く、空虚なのだ。
時に主は、私たちに学びを得させ、教訓を与えるために、私たちによくないものであっても、どうしても言い張るなら、与えられる事がある。だが、自己中心にでなく、主の御心にかなったものを求める方が、どんなに良いだろう。それが一番だ。自分の欲望でなく、主の心に適ったものが、私たちにとっても最善だからだ。主が私たちのために選んで下さったものだからだ。
手に入れても心満たされず、更に、心がやせ衰えるのは、つらいことだ。私たちの求めを、主のお心に照らし、主の喜ばれるものか、主の栄光が現れるものか、よく吟味してみよう。わがままな欲望ではないか、自分の栄光のためのものではないか。
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手に入れたら満足で、すぐに次のものに心は動く。今、欲しいものは主の喜ばれるものだろうか。主の栄光が現される事を喜ぶ心を、まず祈りたい。
発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係