「それから、イエスは弟子たちに言われた『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい』」マタイ16:24

時々、他の人が、悩みや問題の中ににある時、よく「私、私、私・・」の状態にあるのが、はたで見ているとよくわかる。とにかく自分に強烈に固執していて、それこそがトラブルの原因である事が、客観的に見ている第三者にはよくわかる。しかし、自分がその渦中にいると、誰しもなかなかわからない。

 

皆は幸せで、自分は不幸で、かわいそうとの自己憐憫に陥る。自分に注意を引くための自己主張、自己顕示、自分を認めて欲しい、自分が評価されたい、とにかくすべての関心が、結局は「自分」なのだ。「どうせ私の事など、誰もわかってくれない」となる。自分に固執している限り、変わって行きようがない。最初から最後まで、自分の事だけで、これは肉の性質だ。

 

それなら、生涯それだけで終わってしまう。それは幸せではない。御霊の喜びもない。主は、十字架の血潮によって、その中から贖い出して下さった。自己中心にしか生きる事のできない者に、新しい性質が与えられた。主を喜び、主に従おうとする心がある。その新しい性質は、主に従う度に成長して行く。自分の思いを置いて、御言葉に従ってみよう。御言葉と、御霊の導きの方を選択しよう。

 

その時に、自分が変えられて行く。ここに救いがある。新しい性質が成長して行く。常に選択だ。御言葉で判断し、御言葉を行って行く時に、自己中心な者が変えられて行く。これこそ奇跡だ。そして主を新たに知って行ける。何と嬉しい事だろう。

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主を信じてもなお問題や悩みの中にいるが、主の十字架によって、新しいいのちを受け、主を感謝し、喜ぶ生き方へと変わった。古い自分には解決できない。主の御言葉に従って生きよう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係