「私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか」ミカ6:6

罪を犯した時に、その罪が赦されるために、何が必要なのだろう。一歳の子牛か、いやそれでは足らず、幾千の雄羊、幾万の油かと。ミカはどこまで行なえば、受け入れてもらえるのかと言っている。それでも足らずに、自分に生まれた子を献げるべきなのかと。罪意識にさいなまれる時に、何とかしてとがめを消し去りたい。

 

そのために、子どもをいけにえにするところまで行き着いてしまう。しかしそれは、「邪悪な良心」だ。邪悪な良心とは、神を認めない事だ。キリストの十字架の贖いは、キリストの血潮は、罪を完全に赦し、解決を与える。しかし、それだけでは赦された気がしないので、何かを足して加えようとする。行いを足そうとする。

 

つまりは、神を認めず、神の赦しを信じない事だ。それなら主の十字架は無駄で、無意味だと言う事になる。そうでなく、主の十字架の贖いを信じ、罪の赦しを受け取り、赦された事を感謝して、感謝して、主と共に歩んで行く事だと。

 

「人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか」、いけにえを献げて、受け入れてもらうのでなく、へりくだって、主と人とに仕えて行くこと、主と共に歩むことを喜ばれるのだと。

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自分が罪に対してできるのは、神の罪の完全な赦しの約束を、信仰を持って受けとるだけだ。感謝しよう。神によって赦され生かされている恵みに感謝して生きよう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係