「わたしはもう怒らない。もしも、いばらとおどろがわたしと戦えば、わたしはそれを踏みつぶし、それをみな焼き払う」イザヤ27:4

ある人が職場で、上司から批判され、ガミガミ言われた。それが理不尽で、なぜそんな事を言われるのか。全く納得が行かず、ひどく傷ついた。更に、人の面前でもあり、プライドも傷つき、怒りが湧いた。しかし赦せない思いは、相手でなく自分が苦しいばかりだ。心に鉛があるように重く、悶々状態だ。

 

そんな状態で、しばらく後に、部署替えがあった。その上司とは、会う事も全く無くなった。だが目の前にいなくなっても、憎しみは消えず、つらくてまらない。それなら赦せば良いのに、赦せない。多忙な時は紛れているが、色々な瞬間に、ふとよみがえり、心に影を落とす。楽しい時も楽しくなく、囚われの身だった。

 

つらくて、追いやられるように、主の前に行き、ありのままを打ち明けた。苦しい事、赦せない事、しかし、自由になりたい事・・、葛藤があったが、このままではいたくない。そんな時、もし主のとりでに頼りたければ、「わたしと和を結べ」と。和を、主と結ぶようにと。この事は、相手ではなく、主と自分の関係の事だと知らされた。

 

それで赦す事を決意した。主と正しい関係でいたいからだ。「赦します、助けて下さい」と、主に意志を向けた。すると、不思議が起こり、心の重苦しさが消えて、楽になった。不思議だった。嬉しくて感謝でならなかった。赦さない心は、相手との間でなく、主との間に隔たりをつくっていた事に気づかされた。

 

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結局、状況や人でなく、主と自分の個人的な関係が問題だと言われている。平安が無いのは、状況ではなく、主との関係による。そこでよく間違ってしまうが、どんなに苦しい状況でも、主との関係が正しければ、心の底に不思議な平安、確かな平安を経験する。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係