「どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください」詩篇51:2

ダビデは、姦淫と殺人の罪を犯して、それを隠ぺいしていた。王であり、自分の意のままだ。誰も何も言えない。しかし主は、何もかもを見ておられ、介入された。預言者ナタンを遣わされ、ナタンはダビデに告げた。貧しい人が大切にしていた一匹しかない子羊を、富んだ人が取り上げ、自分の客のために調理した。

 

するとダビデは「そんな男は死刑だ」と叫んだ。同時にナタンは「あなたがその男です」と指摘した。ダビデは、真正面からの断罪に打ちのめされた。「私は主に対して罪を犯した」と罪を認め、悔い改めた。ダビデはトップであり、全権力を持ち、その権力で、すでにウリヤを殺している。ナタンなど簡単に殺せる。

 

しかしダビデは悔い改めた。王が、人々の手前も関係無く、悔い改めた。その瞬間、ナタンの言葉が臨んだ「主もまた、あなたの罪を見過ごして下さった」。主は真実だ。どんな罪も、悔い改めるなら赦して下さる。だが「人は蒔いたものを刈り取る」との通りにダビデも刈り取った。

 

実子アブシャロムが歯向かい、戦いをしかけ、家族間の争いやごたごたで、つらい刈り取りをした。しかし、ダビデは取り返しのつかない過失にかかわらず、赦され、義とされた。私たちも同様だ。罪を抱えたままなら、平安を失い、苦しくてたまらない。隠ぺいすると、嘘の上に嘘を塗り重ねて行く。そのまま主のもとへ行き、告白しよう。

「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは幸い、主が罪を認めない人は幸いである」。罪がおおわれ、主は罪を認めないと。

 

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罪が赦されるとは、何と驚くべき事だろう。一方的に与えられる恵みに驚きと感謝しかない。悔い改めて、赦される度に主の愛を経験し、知って行く。罪がおおわれ、主が罪を認めないと言われる。平安が戻り、前に進んで行ける。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係