「なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです」Ⅰヨハネ3:9

私たちが「神の子」であることの根拠は何だろう。良い行い、良い態度だろうか。信仰的、霊的だから神の子だろうか。主の言われた事に、きちんと従っているから神の子だろうか。だが、成長した、霊的クリスチャンだから、神の子なのではなく、主イエスを信じ、新生した瞬間にすでに神の子だ。

 

母親から生まれたから、その子供あるように、神から生まれたから、神の子供だ。生まれの問題だ。雇い人なら主人の財産を相続する事はない。しかし、子は親の財産を相続する。私たちは、親である神の相続人だ。すべてのものを相続する。キリストとの共同相続人だ。何という恵まれた地位にいる事だろう。

 

父が、放蕩息子の兄に「私のものは、全部おまえのものだ」と言われたように。御父と私たちは、労使関係でなく、無条件で愛される親子の関係だ。子であるなら親に似て行く。きよくなる事を求めて行く。キリストにとどまる者は、罪の内を歩まないとある。これは、全く罪を犯さないという事でなく、弱さのゆえに罪は犯すが、故意に罪を犯し続けないという事だ。

 

罪を犯すと、心が苦しくなり、犯し続ける事ができなくなる。「なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです」神の種、神の言葉だ。神の言葉が心の内にととまる時、罪を犯し続ける事か守られる。神から生まれ、神の種を持っているからだ。サタンにも、罪にも、打ち勝って行ける。

 

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生まれ出てしまったら、どうであれ元には戻らない。自分がどんなにふさわしくないと思っても、すでに神の子だ。罪は犯してしまうが、心がつらくなり、犯し続ける事ができない。神の子だからだ。御霊により悔い改めが与えられ続け、新たにされ続ける。何と感謝な事だろう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係