「おのれを閉ざす者は自分の欲望のままに求め、すべてのすぐれた知性と仲たがいする」箴言18:1

私たちは、様々な人間関係で悩む。しかし私たちを、その対人関係の中に置かれたのは、主だ。今、ぎくしゃくしている相手があるだろうか。たまたま出くわし、不運なのではなく、主がその相手をあなたの前に置いておられる。目の前の相手や、状況ではなく、主に焦点が合って来ると、主の取り扱いが見えて来る。

 

性格が全く異なり、考え方や価値観の違う相手がいるからこそ、自分の姿があらわになる。皆が皆、同じ意見、同じ考えであれば、ぶつかる事もなく、自分の本当の姿が現れる事もない。自分の出っ張った部分が、相手と摩擦を起こし、自我がぶつかり合う。本来の自分がいかに自己中心で、頑なで、罪深いかを知る。

 

ある婦人は結婚して、姑とうまく行かなかった。姑がひどく意地悪だと思ったが、祈りの中で、御霊の光に照らされ、自分も意地悪で、いかに愛が無いかを思い知らされた。怒りが湧き、わからないように仕返しをしていた。主のもとへ行き、心の内を祈り、自らの罪を認め、悔い改めた。姑への思いが変えられ、交流が楽しく思えるようにされた。私たちは目の前の人を通して、取り扱われる。

 

よく来る誘惑が、そこで自分を閉ざしてしまう事だ。しかし、自分を閉ざすと成長が止まってしまう。うまくゆかない相手により、へりくだりを学ばされ、高慢が砕かれる。主に焦点を当てて、逃げずに、心を閉ざさずに、主のもとへ行き、御霊の導きを求めよう。なすべき事が教えられ、自らの姿を見せられ、学んで行ける。まさに成長の機会だ。

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避けられない人を主は置かれる。主に導かれたなら御声に従おう。新たな展開などないと自分に閉じこもっているなら祈っていこう。主が見ておられるように相手の事も自分の事も見ていきたい。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係