「このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです」 マタイ20:16 

あとの者が先になり、先の者があとになるとは、常識では測れない不思議な状況だ。そこでは目に見える所でなく、見えない所が見られている。主が見られるのは、心の動機や態度だ。この世では仕事に動機を問われる事はない。結果が重要で、問われるのは成果だ。だが神の国は異なる。ペテロは「私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょう」と言った。

 

それを受けて、主は、あとの者が先に、先の者があとにと言われて、ぶどう園の労務者のたとえを話された。すべてを捨てて従った弟子たちのその動機、働きの動機を見ておられる。ぶどう園で働いた最初の者と最後の者たちは、一日の終わりに、その動機があらわになった。5時の者が1デナリで、早朝からの者も同額であった時、「一日中労苦と暑さを辛抱した」と不満を噴出させた。

 

主人のために働く事は、苦しく、つらい事であり、同じ1デナリと判明した時には、怒り爆発だ。納得が行かない。自分たちはもっともらう権利があるとの立場だ。実は早朝から十分な報酬が保証されていて、安心して働けたとは何という恵みだろう。一日働けば、きちんと報酬が入る。夕刻の人々は、その日の糧を待つ家族を思い、どんなに不安と焦り、恐れであったろう。

 

そして思いを越えた報酬に驚き、どんなに感謝しただろう。私たちはどうだろう。信仰生活、感謝も喜びも無く不満タラタラ、主のために、人のためにしてやっているとの態度だろうか。動機はどうだろう。今一度、神の国は、恵みで成り立っている世界であり、主の恵みに目を向け、そこに立ち返ろう。

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思いをはるかに越えた恵みによって生かされているのに何かすると自力で祝福を勝ち取ったように思える。気をつけていたい。いつも感謝し主にあって喜んでいたい。全てが恵みによる世界だ。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係