「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」ヨハネ9:2

弟子たちが、「なぜ?」と思ったように、様々な苦しみや重荷を抱えている時、「なぜ?どうして?」との思いがあるので、人は、その苦しみの説明をつけようとする。その時、どうしても過去に、その原因理由を探そうとする。成育歴や過去に起きた事に行き着き、誰かの、又、何かのせいにして、自分の心を収めようとする。誰かにぶつけざるを得ない。

 

しかし、あれが悪かった、これが悪かった、あの時ああであれば、こうであればと幾ら思っても、後悔しても、過去は絶対に変える事はできない。堂々巡りするばかりだ。何も変わらず、ますます苦しくなるばかりだ。主は、その視点を全く違う方向へ向けられた。今、盲目であるのは、本人の罪か、親の罪かの問いに、きっぱり「ノー」と言われ「神のわざが現れるため」と。

 

旧約聖書によると、盲人の目を開ける事は、神のみがなしうる奇跡であり、メシヤのしるしだ。実際、奇跡により目が開いたのだが、更に大きな奇跡は、この人が、主がメシヤである事の証しのために、永遠の昔から計画されて、今ここで用いられた事だ。神の大いなる栄光が現された。

 

私たちが信仰人生で最も求めるものは、私たちを通して主の栄光が現れる事ではないだろうか。どんな過去であれ、もしその事で主の栄光が輝くのであれば、受け入れる事が可能なのではないだろうか。主の視点と御心に立って、もう一度「なぜ、どうして」の過去を受け取り直す事ができるよう祈ろう。

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あの苦しみの時も挫折の時も、神の大きなご計画に取り囲まれていたのではなかったか。今そう言える。主を知り、罪を赦され、主と共に歩める。主のご計画の中の恵みのプロセスだった。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係